桃太郎さんのモノクロ画像集

ここでは、倉敷市在住の桃太郎さんから「郷愁掲示板」にお寄せ頂きましたモノクロ写真を紹介します。撮影されたのは約30年前、生活色の濃い生きた町並が表現されています。
デジカメでは表現できない郷愁を感じていただければ幸いです。






13年前に赤穂の海岸へ桜を見に行きました。帰りは海岸線を走り室津の町に立ち寄りました。昔の建物が全く残っていませんでした。本瓦葺きの重厚な風情のある港でしたが現代の建物になっていました。私が最初に訪れた昭和48年にすでに崩壊寸前の建物が多かったように思います。様式から見ても江戸時代の建物が多かったのではないかと思います。本瓦葺きは100年に一回は瓦を降ろし垂木の取り替えや瓦の修正が必要です。赤土の上に瓦を置きズレないようにしていまるので屋根の荷重が桟瓦に比べて重くなります。
(兵庫県室津)



下津井田浦に古い風呂屋があると聞いたのですが二回とも戸が閉まっていた。地元の人に聞いたら風呂屋が二軒あって交互に開く事になっている事がわかり三回目でやっと撮影できた。陽が落ちてから三脚で撮影した。裸で風呂に行く光景もステテコ姿も懐かしい風俗で私のお気に入りの写真である。
(岡山県倉敷市下津井)







本屋や図書館、インターネットでプロ、アマチュアを問わず写真集を良く見る。プロの写真は上手くて美しいがパターンが読めて面白みに欠ける。その点、アマチュアの写真は何が出てくるかわからないので面白い。上手い写真も下手な写真も私にとっては為になる。「東京の坂」と言う写真集を見た。東京の坂を歩き回って撮影している。狙いはよいが撮影するのが30年か40年遅い。40年前の写真を見れば東京にも茅葺き民家が街角にある。
しかも、撮影しているのが日中のトップライトである。雨の日の写真が一枚もない。都会の障害物の多い落ち着きのない光景を消すのは雨であり雪であり夕暮れである。私ならば「坂をテーマ」にもっと情感のある光景を求める。だれが撮っても70点を取れる光景を探し求める。斜面の坂の上に茅葺き民家、棚田の中に走る坂道などを全国に求める。写真のセンスも技術も無い私には題材のよさを求めるしかないと思う。
(岡山県倉敷市下津井)

三脚にカメラを据えて写真を撮影していたら近所の子供が面白がって近づいてきた。慣れてくると私の尻にパンチを浴びせてきた。叩き甲斐のある大きな体にはそのパンチは痛くも痒くもなかった。子供は華奢な女性などにパンチを浴びせたりしない、思い切り逆に叩かれるのを本能的に知っている。

 (岡山市撫川)


玉島長尾に大きな民家がある。かって大庄屋であった家がある。千坪を越える敷地を土塀が囲み、正面は海鼠壁、本瓦葺きの長屋門があり隣に海鼠壁の高い蔵がある。海鼠壁のサンプルのような家である。昔ながらの工法の海鼠壁である。
この家は数年前に通ったときも痛んでいるが残っている。この家を昔の工法で改修するには個人では難しい気がします。
江戸時代からの旧家で頼山陽が立ち寄ったと本には書かれています。
中の茅葺き民家が撮影したくて何度も訪れたが門が閉まっていた。その頃は撮影のために頼み込んで訪問する度胸はなかった。今日は珍しく門が開いていた。

 (倉敷市玉島)


岡山県鴨方の北部山沿いに古い町並みがある。地元の人は本鴨方と呼んでいる。今は町の中心が国道二号線や山陽本線の駅のある地域に移りすっかり寂れてしまっていた。私はオートバイに乗り玉島駅の裏の細い路地沿いの町並みを抜け金光から鴨方に撮影に行ったのを記憶している。その時、停めてあったオートバイが倒れて波板に穴をあけた。かなりくたびれた波板だったが全面張替えてくれと言われたらどうしょうと思いつつ詫びにいったら「もうボロたからよい」といってくれたのにはホッとした。写真は時代を記録するだけではなく記憶も鮮明に蘇らせるアイテムである。
 (岡山県鴨方町)




牛窓の町の道も他の古い町並み同様狭い。車が一台通れるかどうかの広さである。道の狭さが開発を拒否してきた。写真は造り酒屋で牛窓の集落の手前で道が比較的広い。訪れたら丁度春の祭りであった。
神主が祝詞をあげているところへお爺さんが何も判らないような孫を連れてきてしきりにあやしている。その声が周囲聞こえる大きな声である。祝詞に首を垂れて聞き言っている祭りの参加者にははなはだ迷惑な訪問者であった。その光景を後ろから撮影して馬鹿な男もはなはだ邪魔な訪問者であった。
(岡山県牛窓町)








岡山県早島で撮影、梅雨の末期、まだ入学して間のない小学生三人組が通りかかった。並んでもらい何枚か撮影する。今、彼女らは38歳である。まだこのなまこ壁は早島の中心を走る道路に残っている。
もう一度彼女ら3人をここに立ってもらい撮影したい。撮影した時は何十年後の彼女らがどのような人生を送るのか、どんな顔や姿になるのだろうと想像しながら撮影した。
倉敷市茶屋町から下津井まで下津井電鉄の路線があった。国鉄の在来線より狭いナローゲージと呼ばれる線路で760mmしかなかった。在来線もナローゲージなのだがあえてそれより狭い線路をそう呼んでいた。ご存知の通り線路は新幹線の線路幅を標準軌といい、それを超えるものを広軌、それを下回るものを狭軌と呼ばれている。
これが廃線になると言うので、その頃「鉄チャン」だった私は撮影にいった。
下電の茶屋町駅は夜ともなると、まさに3K(暗い、汚い、怖い)であった。しかし、男にとってはたまらなく郷愁をそそられる風景だった。







倉敷の東町の通りに桶屋さんがあった。斜め前には提灯屋(今もある)がある。
昔ながらの職人や商売をやっている町であったりであろう。
根からの職人さんの風情で黙々と木を削っていた。仕事の邪魔にならないように話を聞いた。出来上がっている製品を三つ程並べさせてもらい写真を撮った。いわゆる「やらせ」である。これくらいの演出は仕方ない。


倉敷の鶴形山にある阿智神社の祭りに撮影に出かける。鶴形山の周辺はかって入り江で潮が入ってきていたそうである。船の守り神とて崇められたそうである。鶴に対して水島に亀島山というのもある。ともに浅瀬を知らせる灯篭があったそうだ。
ここから見る倉敷はほとんどが本瓦葺きの重量感のある瓦の景色である。桟瓦の集落では重量感がなく、時代が付かない。
倉敷の瓦が一番よく見えるは同じ鶴形山の本栄寺からであろうか。





海辺にニシン倉が建っていた。北前船で運んできて肥料に使う「にしん」を入れておく倉がまた残っていた。
北前船の置き土産の厚岸草が今ごろの季節になると紅葉した。寄島にも自生地があったが埋め立ててなくなった。(岡山で今も厚岸草の見られるのは牛窓の錦海湾の塩田跡)
この海岸の沖合いは遠浅で流れがないので大きな木材を浮かべていた。沖合いは工場用地として沖の島まで現在埋め立てている。この写真がどのあたりであったか今はさっぱりわからない。埋立地の工場誘致は高度成長期に陰りが見えて思ったほど集まらない。草原になっている。
干潮に行くと砂浜では「穴シャコ」がよく獲れる。寿司ネタのシャコより一回り小さくザリガニ同様に穴に暮らしている。

(岡山県寄島町)



倉敷市下津井吹上の神社から瀬戸内の海をポケーと見ながら撮影する。
下津井は四つの集落があるがその集落毎に神社とお寺がある。小社や祠も点々もある。古い町並みは人が住み着いた歴史の数だけ信仰の対象物も多い。人の不幸や災害の歴史や幸運が民間信仰として残るのであろう。岡山の山陽町というところにネオポリスと言う大きな新興住宅地がある。こんな団地には民間信仰など存在しないとおもって車で走ってみたら、寺院が一角に進出しているし小さな神社もでき祠もあった。







休日の朝、小雪が舞っていた。小雪が降る際にはこのお茶店さんを撮影しようと以前から考えていた。雪も程度もので降りすぎるは好きでないし雪の写真は二〜三枚あれば十分である。ソフトレンズをやたら使いたがる人があるが飽きてくる。
ソフトレンズでの表現が効果的なものだけ二枚で十分である。
このお茶店は天満屋と言うデパートの東にある現在店は廃業しているが家は昔のまま残っている。

(倉敷市)

倉敷は地元なのでよく細い路地一本一本歩いて撮影した。そんな写真はほとんど焼き付けもせずネガのままの死蔵されている。焼いて見ると意外な発見があるかも知れない。
路地を歩いていて「按摩、乳もみ」の看板があったので撮影したことがある。子供の頃はマッサージなる言葉はなく按摩である。私は写真にほとんど人を入れて撮影する。なぜ人を入れるか? 人が造ったものは人が生活するため暮らすため、利用するためにある。出来る限り人を中心に風景はそれを引き立たせるように利用する。

(倉敷市)


※解説文は掲示板に投稿いただいたものを、一部割愛・編集して掲載しています。